酒井あゆみ著
第八 春菜<身長・フリーサイズ>T162 B82 W56 H83 40歳
広島県出身。兄弟なし。医師として働きながら、並行してヘルス、デートクラブを経営。夫とはテレクラで知り合う。2児の母。
自分は医者をしてるとは言っていなかった。お客さんにも、誰にも。
「うちでよければ、来ていただてかまいませんよ。ただし、あまりきれいじゃないですけど」
私が、この本の取材を電話で依頼して、話を聞く場所を指定してもらいたいと言うと、春菜(四十歳)はさり気なく答えた。優しく、深みのある声だった。
初めて会う、しかも風俗絡みの話をする場所として、相手の自宅というのは何度かあったが、やはり気が引ける。しかし、彼女のあまりにも自然な様子に押されて、ついついその言葉に甘えてしまった。
平日の午後、私は宇都宮から石塚の駅で降りて改札を出ると、春菜が「酒井さん、ですね?」と笑顔で迎えてくれた。春はまだ浅い頃、彼女は黒のインナーに白のカーディガン、下はジーンズというカジュアルな服装だった。身長一六二センチ、スリーサイズは八二(Aカップ)、五六、八三、関節がボコッと目立つほど細い腕で、セミロングの黒髪を掻き上げた。体全体も、羨ましいさを少し通り越したスリムさだ。
「こんなとこまで来ていただいて、すいません。お疲れでしよう? 車で来てますんで、どうぞ」
促されるまま、私は赤のカローラの助手席に乗った。春菜はエンジンをかけ、車は駅前の商店街から郊外へと走った。車窓からの景色を眺め、梅雨でもないのに雨の日が多いなんて他愛のないことを話しながら、ふと運転している彼女の横顔を見た。鼻筋の通った端正な顔立ち。メイクは薄く、耳に小さなピアスを鈍く光っている。どこにいそうな主婦、いや、むしろ地味で聡明な良妻賢母の雰囲気を漂わせる。顔も体も細いが肌に張りがあり、五、六歳は若く見られるだろう。
「これが、あのホームページ(HP)を作っている人なのか…‥」
私は、心の中でつぶやいた。
車は閑静な住宅街の一角、春菜の家のガレージに入った。それは、木目を活かした4LDKの可愛らしい家だった。スミレやパンジーを植えたプランターが門から玄関へと続く短い通路の脇に並んでいる。けっして華美ではないが、センスのよさがにじむ佇まいだ。家族は外出中だった。
ダイニングでお茶を頂き、取材を始めようとすると。春菜は「酒井さん、こっちの部屋に来てください」。廊下を歩き、扉を開けたその部屋は、彼女の四畳半くらいの書斎だった。正面奥の窓際に置かれた机の上に大きめのデスクトップ。パソコン、部屋の左右の壁は書棚になっていて、本やCD、DVDがビッシリ並んでいる。大半のペースは医学書が占め、隅の方に、映画、音楽などの娯楽関係。そして「家族に内緒ね」と彼女がカギで開けた引き出しには、風俗関係の書籍、雑誌が沢山入っていた。
私の本も、その中にあった。「そっかあ、開かずの引き出しの中なんだ、私の本の居場所は。しかもオモチャと一緒かよ!」。なんだか笑えてきて、春菜と一緒に大笑いになってしまった。
「あのね、この部屋自体が、開かずの間なの。ふふふ。ここでHPも作って、更新してたんですよ」
春菜は、自宅から車で二十分ほどの小さな病院で、二十七歳から内科医として働いている。四つ年下の旦那が「主夫」として子育てなど全般を担当、十一歳と七歳になる娘二人がいる。
二十歳の時、春菜はピンクサロンで二日だけ働いた。二十八歳で結婚。すぐに長女が生まれ、産休明けに病院勤務に戻った。次女が生まれて間もなく三十二歳の時、ファションヘルスの門をくぐった。本番なしの店に四カ月、ありの店二カ月。旦那にバレて辞めたが、その後も二年ほど前までデートクラブで稼ぎ、生活費や子供の教育に充てていた。
そんな彼女がHPを始めたのは、ヘルスを始めて少し経った頃だった。
「もともと、ずっと風俗に興味があってね。他人の人が運営している風俗系HPを覗いた時に、なんか温かい感じがしたんですね。うん。弱虫が片寄せ合ってる感じかもしれないんですけど(笑)。そこで『○○ちゃん可愛い』とか『△△ちゃん大事、大事』って、お客さんお気に入りの風俗嬢へのメッセージがあって、感じがいいなと思って」
そのサイトは女性でも参加できる。もちろん風俗嬢自身も。そこで春菜は書き込みを入れてみた。医者であることも「病気」を持っていることを隠して。
「□□。三十二歳です。昼はシステムエンジニア、夜はヘルス嬢やっています。よろしく―」
すぐに反応があった、スーツ姿でコンピューターに向かう彼女と、夜のホテル街を客と寄り添って歩く彼女を想像した男女たちが、そのギャップに関心を持ったようだ。
「複数の男女の常連さんたちが、『はーい、新しいお仲間が増えたよ!』って迎えてくれたんですよ。その仲間に入れてもらえたのが嬉しかった。そういう風に、ワイワイ気楽に騒ぐ友達ってものに、私はそれまで縁がなかったので。『あぁ、ここで、こういう風に居場所を持って、自分にやって来たことや、何気ないことを書いていけば、誰かが読んで反応してくれる。そういう仲間がここにならいるかな』っていうのがあって。それで自分で始めたんです」
八年前、ヘルスに勤めていた頃、開かずの間のカギを閉め忘れ。旦那にHPのことがバレた。
「一旦はやめて、それで部屋のロックを厳重にして、再開したの。こうなったら、ぜーんぶかいてやるぞーって(笑)。しばらく鬱々としていて、ヘルスも旦那に知られるかもしれないと思って、辞めたんです。デートクラブやってた時もHPは続けてて、今の医者の仕事も始めてからも、サイトの更新は続けていましたよ。生活の一部になってたから」
春菜は自身のHPに、日々のこまごまとしたことから、生い立ちなどを綴っていった。間もなく、仲間たちが読み、感想や意見を書き始め、その話がどんどん広がった。さまざまな職業の男女が悩みや、束の間の喜びなどを春菜のサイトに寄せては、「会話」していった。いつも素直な彼女の文章に多くの共感が集まったのだ。いつしか評判になり、雑誌にも取り上げられた。
それでも彼女は医者であることと、持病のことは伏せていた。
「風俗嬢は普通の人じゃないっていう見方を皆がしてたが。そこに、『あっ、やっぱりこの人はこういう過去があって、こういう変な人だからなったんだ』って思い込みがあると思うんです。ホントは医者だっていうことはカミングアウトしないでおきたかった。医者ってのもどこか人間じゃない、みたいなところがあってね。あははー」
医者の家系に生まれ、風俗を一通り経験した私は、どちらの職業とも世間から色眼鏡で見られているのを痛いほど知っている。だから、春菜がHPで医者であることを秘密にした理由も分かる。そして本当は、特に風俗嬢への偏見について、彼女はそうではない普通の部分もあるだとアピールしたかったのではないかと思った。
「お客さん(サイトを読んだり、書き込みをする人たち)にね、最初は『どっちも自分には関係ない世界で起こっていることが(私のHPに)書いてある』っていう風に、思ってもらいたくなかった。だから素性を隠していたんですけど、ちょっと医学的なことを書いたことに対して、ある人が『専門家でもないのに分かったようなことを書くな』と、バカにした調子で書いてきたの。それで暫くして、医者だとカミングアウトしました」
HPを立ち上げ、運営する以上、多くの人に読んでもらいたい、書き込んでもらうことが運営者としてのやりがいになる。けれども。書き込み一つで客に反発したり、引いたりしてしまうのも事実だ。
「それはウリにはしたくなかったし。ずーっと、誰にも言わなかったし。風俗のお客さんにも、自分が医者をしているとは言わなかった」
私は思わず春菜に言った。
「みんな普通の人間なんです。みんな同じ。もちろん、私も。自分のことを言うのも変なんだけど。ちょっと特別な過去を持っているかもしれないけど、でも、誰だって何らかの過去を背負っているもんだと思うんですよ」
彼女は「そうなんですよ。ホントに」と大きく頷いた。
お金が欲しいのは、みんな一緒。風俗をやっていない人もやっている人も、そうだ。風俗嬢をした私は思う。風俗を辞めてからも、この業界に棲む人たちは特別な人種ではない、一般の人と同じ考え方を持った人たちだと訴えたくて、風俗をテーマにノンフィクションを書いている。
しかし、自分のHPを持って続けていくというのは難しい。「どこまで自分を出せばいいのか」を常に考え、表現しなければならないからだ。少なくとも私には大変な労力に見える。自分を守るつもりで素性を隠せば、心ない書き込み者に好き勝手に追及される。根も葉もないうわさを流されることもある。情報を発信する方が匿名なら、受信し、反応するのも匿名の人間。誰だか分からない同士の無責任なやりとりが日夜、交わされる。インターネットは人の善悪の感情が剥き出しになる空間なのだ。
「私も、初めは隠して隠して書いていたんだけど。イヤんなってきましたね。それで結局、子どものころからの細かいことを書くようにしたんです。できるだけ洗いざらい。ただ、読んだり書きこんだりする人はあまり多くないから、目立たないだけで。嫌がらせはほとんどなかったし、特殊な境遇だったから。見る人が見たら、『なんだ、こんなことをやっているのか、お前は?』って言われますよ、きっと。まあ二年前にHPを閉鎖するまで、幼馴染や友達、同僚の先生(医者)に見つかったことはなかったけど(笑)」
ある日のサイトには、二児の母親である彼女の言葉が並んだ。
「毎日の生活を何とかやっていくことは、質素にしようとすればできないでもない。当時、まだ体の具合がよくなかったんで、朝から晩までフルタイムでパートすることなんてことはできないって思っていたんですけど。それでまぁ、出来る範囲でやれば、些細なお金くらいは稼げる。それで暮らしていくのもいいかもしれない。でも、それじゃあ、私たちの老後の生活保障もない、子供たちが学齢に達して、大学に行くとき。自由な選択肢を与えたり、甘やかしてやることもできないですよ」
私は、春菜の過去に興味を持った。聡明で笑顔を絶やさない「如才のなさ」の裏側に、凶器にも似た危うさを感じたからだ。いくつもの対極的な要素が反発しながら重なり合い、今、目の前にいる彼女を形作っている。
両親は広島県の海沿いにあった小さな製紙会社に一緒に勤めていた。父は生産部門、母は事務職だった。春菜は一人っ子。両親の愛情と期待はまっすぐに彼女へと注がれた。
「田舎にしては、母が働いて父も家事を手伝って、というとても今風な家庭でした。子供にキチンとした教育をさせて、クラッシック音楽とか趣味のいいものが家の中にあって、ブランド物とか、母も結構知ってた。貧乏は貧乏でしたよ。ちっちゃな家に住んでいたんですけど、暮らしをキチンと、質のいいものにしたい、というのが母の憧れでした。未だにそうですけどね」
厳しい父と、限られた生活費の中から自分の目で選んだ品々をくれた母。春菜は小学生の時から、一目置かれる存在だった。
「多分、私、すごく頭のいい子だったんだと思うんです。あと、泣き虫だったら、遠ざけられたり、イジメられたり、本をよく読む、友だちの少ない子供でした。中学は、家から片道二時間の広島市内の私立に通って。そこでも一目く置かれた。みんなから『勉強のできる子』って思われて」
一貫教育だったので受験をせずに隣接の高校へ。しかし、入学して間もなく、両親の勤めている製紙会社が倒産、家庭内がギクシャクし始めた。春菜のことを思い、愛情込めて叱っていた父は、会社のゴタゴタからか、感情のままに怒鳴り散らかすようになった。母は、そんな会社の後始末に駆けずり回り、春菜のことを以前のようには構えなくなった。
「私、奨学生だったんですよ。学年で一番というか、成績が良くて品行方正とかだと奨学金がもらえるので。その頃は、その奨学金の路線から外れたくなくて、勉強だけは頑張ってました。でも結構面白い、親に隠れてやることを覚えたの。学校の帰りに、いろんな店に立ち寄ってたり、ケーキとか食べたり。小さなことだけど、当時の私としては大胆な行動だったな」
高校二年の時、春菜はダイエットに初めて挑戦する。
「今まで着ていた服が着られなくなってきて。十一号のスカートを穿こうとしたら、すごくきっくって。九号が普通で、十一号はデブなのに、それが着られない私って…‥。初めてミットモナイって思ったのよ。それまで自分の体形なんて構わなかったのに、突然、気がついて。で、夏場にあまり食べず、学園祭の演劇の練習で動くようにしていたら、五五キロあった体重が二ヶ月で四五キロに落ちた。当時の身長は一五七センチ。自分でもそのくらいがキレイだなと思ったし、顔もスッキリしたし。通学の電車の中で男の子に声を掛けられるようになって、イイじゃん! って思った頃には、反動が始まってたんです」
高校の帰り道、買い食いをし始めた。コンビニでパンやスナック菓子などを買っては公園のベンチでむしゃぶりついた。「奨学生」にはもちろん初めての経験だった。
「親から与えられるものじゃない食べ物を買うことができて、それを食べることが面白かった。でも、太りたくなくて、食べては吐いていました。それわ、ずーっとやっていましたね。結婚する頃まで続きましたよ。今もまだ、月に一回位ずつ発作が起きます。そうです、がっつり拒食症になっちゃってた。で、拒食症って形で初めて親に心配というか迷惑らしい迷惑をかけたんですけど‥‥。反抗期らしい反抗期って、私の場合、いつも『いい子』だったんで、なかった。で、うちのトイレで何度も吐いて迷惑をかけたことで、『反抗期』は全部、すんじゃったのかもしれない(笑)」
これが、春菜と拒食症との出会いだった。その後、現在に至るまで四半世紀も続くことになる。
「ただ早く高校を卒業して、ウチを出たかったんです。病気になったことを含めて、親はアレコレもっともらしいことを言うけだけで、私の気持ちを分かってくれない。分かってもらおうって努力したけど、それがイヤになっちゃって。親にそう言われないところに行きたかった。で、全寮制の医大を受けたんです。医者になろうっていうより、勉強はできたから、親から遠く離れたところに行きたかったのね。合法的にウチを出る手段でした。娘が医者になるなら親も納得するでしょ?拒食症は自分一人で向き合って治していこうって」
私は、春菜の話を聞けば聞くほど、同じ年代の頃の境遇に似ているなと思った。親戚に預けられ、一緒に暮らしていなくても、私は親がイヤでイヤで仕方なかった。春菜にとって、どんな親だったのか、さらに聞いた。
「ごく普通。特別、悪いわけではない。ただ、私が話そうとしても、頼ろとしても、しがみつこうとしても、通じない。最終的には親の言うことだから聞きなさいて、上から命令されちゃう。殴られたり、虐待はなかった。心ないと言葉が辛かったんです。悩みや相談を持ち掛けてね『自分で何とかしろ』『そんなことで悩むなんて、みっともない』って。両親とも取り合ってくれなかった。それから、人を平気で差別する。『あそこなんか、夜の商売だから』とか、近くの工場で働いていた在日外国人たちのことを『あそこはちょっと家系的に良くないんだよ』とか、簡単に言うんですね。差別しているっていう意識もなくそう言うのが、私嫌いだした。ムカムカした」
春菜の祖父は弁護士、父は製紙会社の幹部。一方、母は医者の家系、私は、自分にそういう血が流れていることを意識すると今でもムカムカする。極力日頃は出さないようにしているが、万が一。ボロッと出るのが怖い。人のことを意図せずに見下したり、傷つけたりしていないか。自分が偉いわけでもない。春菜も同じような思いを親と周りの人々に対して持っている。
「父は十年以上前に胃がんで亡くなりましたが、母は七十歳を過ぎて元気にひとり暮らししています。結局、お嬢様で、未だに小ぎれいでニコニコして、お金はないのに気位だけは高く。趣味よく生きているので、感心しますもん。うん、見ていると。よく貫いたな、それをその歳まで。もう文句は言わないから、あんまり目に触れないところにいてって。はははは‥‥。見ると腹が立つんですよ。簡単にこう、人を傷つけることを言い続けるから」
最近も、こんなことがあった。娘を連れて帰郷した時、母親は言った。
「子供産んでいいことなんて一つもなかったけど、お前が孫を産んでくれてよかったよ。こんな可愛いんだから、お前産んでいてホントよかったと思うよって。それを言われた時の私の気持ち、分かります? オネガイ…‥。そう言われて、こっちがどれだけ落ち込むと思うのって、お腹の中で思いました。彼女とすれば。私が子供を産んだことを称賛するという意味で、そんな言い方をするんでしょうけどね。そういうことが度重なっているもんですから」
話は、春菜が十八歳の時に戻る。医大に現役合格した彼女は、家を出て、大阪で寮生活を始めた。学業は順調だったが、拒食症との闘いは続いた。
鬱陶しい親から解放それたが、大学と病院を往復するひとり暮らしというのも、若い彼女にはこたえた。やがて同じ学校の先輩と初体験をすませるが、自然消滅的に別れ、街で知り合った二番目の彼と三年付き合い、破局を迎えた。女子高出身かつ奨学生だった春菜は共学の大学に入るまで、男の子とどう付き合ったらいいのか、全く知らなかった。
「自分の中にある性的な面をどう解放し、育てていくのか分からなかった。もう、その頃は体がセックスを欲しがってたんですね。精神面が追い付いていなかったの。初めての時は『なあ―んだ。こんなもんか』って思いましたね。期待が大きすぎたのかな(笑)。二番目の彼とは本気で付き合ったんで、別れた後、心の中でブチッと何か切れる音がしたんです。自暴自棄になって夜の繁華街を飲み歩いて、オジサンたちに引っかかっては輪姦されたり。でも、いくらでも逃げられるところを、逃げなかった私も私ですから(笑)」
大学四年、二十一歳の時、春菜はピンクサロンに勤めた。求人誌を見て店に電話し、即入店した。医療現場での実習はストレスになり、拒食症も治る気配なかった。彼女は、自分の中の何かを壊したかった。そして、母親の影響で好きになったピアノを寮には置けなかったので、小ぶりのキーボードが欲しかった。七万円だった。
「私はピンサロって言うのが何をやるかも、よく知らなかったの。お触りバーみたいかなって、お酒飲んで、触られて、キャアキャア言っていればいいのかな、と思っていたんです。また、そこのマネージャーってのがいい加減で。『座ってニコニコしていればいいよ。なんにもお仕事しなくていいから』って言われて。周りの女の子たちがやっていることを横目で見ながら、真似したって感じです。初日で五万、二日目に三、四万はもらえたけど、二日で辞めちゃったんです」
私は不思議だった。周りの女の子たちが男のペニスを咥えるところを見ても抵抗も覚えず、自分もそれに従ったのか。そして二日でそれだけ稼げるなら、なぜ続けなかったのか。
「学校の実習で、もっとグロいのを見ていましたし、土壇場で度胸が据わる方なんですよ。ええ。それがすごく恥ずかしいことだって、よく分かってなかったんだけど(笑)。店の女の子たちは私と違って、どこかとても悪いことをしている。世の中に申し訳ないって感じでコソコソ務めているのを見て、あ、ここはそういう場所なんだって思ったんです。ホントにこんなに沢山の人が働いているのもかかわらず、居てはいけない場所なんだなって。でもね、来た以上は、こんなところでオタオタしてたら自分がみっともないと思って。こういう世界がホントにあるんだから、自分はビクビクしたくない。だからサービスをイヤだとは、あまり思わなかったですね。ソープってのは知っていましたけど。ピンサロみたいに中途半端な射精産業とは知らなかったから、知った時は、ワーッて衝撃でしたね。もう特に買いたい物もないし、これで十分かなって、辞めちゃいました」
二十代、春菜はテレクラ遊びにハマり、数え切れない男たちとセックスし、妊娠した。こんなに自分を切り売りして、避妊などほとんどしていなかった。誰の子供か知る由もなかった。中絶するしかなかったが、自分一人で病院に行くのはあまりに心細かった。
「会った相手の電話番号をすぐに消しちゃったんです。辛うじて二人だけ残ってた。そのうちの一人が、すっ飛んできてくれたんです。電話で私が『あなたの子供ではないし、あなたは何も責任をも必要はないの。だけど、私は今とても弱っていて、中絶が終わってかせめて一ヶ月位の間、そばにいてほしいんだ。一月経ったら別れてもらって全然かまわないから』って。いい人なんですね。で、病院とかついててもらって、それからホントに付き合いだしたんです。それが今の旦那です」
二人は、春菜が二十八歳の時、結婚した。さかのぼることその四年前、彼女は医大に六年通って卒業し、附属病院で研修医としてスタートを切った。最もキツいと言われる外科から始まって、総合病院の各科を経験するはずだった。しかし、は救命救急科の当直の時、それは起きた。研修が始まって半年も経っていなかった。
「手術台に乗った患者さんのお腹が、メスで引き裂かれたんですね。ふと、『この中に注射針を入れたら事件になって、辞めさせてもらえるかな』って、衝動的に思ったんですよ。やっちゃいけないと自分に言い聞かせていたら、目の前が真っ白になってその場で倒れたんです。
当直っていっても、日勤からぶっ通しの時も多いし、たまの休日に『急患だ』って呼び出されたり。もともと、なりたくてなった職業じゃないし、使命感もない。ただ、親から離れたかっただけですから。持病の拒食症もストレスで、どんどん悪化していたんです」
翌日から春菜は、仕事を休んだ。寮から引っ越したアパートで、布団にくるまっている日が続き、やがて、拒食症の治療を受けようと、近くの心療内科に患者として通い始めた。十ヶ月が経ち、症状が落ち着いた頃、春菜は担当教授に「心療内科の研修を受けたい」と頼み込んだ。願いが叶い、研修に戻ったものの、気がつけば、もっと重症な拒食症の患者と向き合うことに。
「死にそうなほどガリガリの患者さんとかもいて、自分もこうなるんじゃないかって不安で不安で。半年くらいは何とか続けたんだけど、また、休んじゃった。今度は大学側も真剣に考えてくれたんでしょうね。四ヶ月後に私が復帰した時、地域の健康医療センターの仕事に就かせたんです」
一応、医師という肩書は持っていたが、仕事の中身は健康診断や、書類の整理といった軽作業だけだった。あまり負担をかけまいという大学側の配慮と裏腹に、春菜は新たな不安を抱えた。
「親に似たのかなあ? プライドだけは高かったんですね(笑)。自分には、まともな役割がない、この先どうなるんだろうと思い詰めていって、拒食症がひどくなっていったんです。服用していた精神安定剤も効かなくなって、今度は一年半も休んだんですよ。こんなに仕事を休む医者、私以外にはあんまりいなかったんじゃないかあ(笑)。それでテレクラに走って、旦那捕まえて、センターを退職しました」
当時、旦那はショツトバーの店員をしていた、春菜と付き合いだしたころ、もっと収入のいい紳士服店に勤めた。けれども四年後に長女が生まれ、旦那の稼ぎだけでは生計が立てられなくなった。翌年、三十三歳の彼女は、昼は大学時代のつてを頼って街の内科医院に勤め始めた。夜はヘルスで半年働き、夫にバレてから、こっそりデートクラブで稼ぎ出したわけた。
「旦那には、夜は残業とか言っていたんですけれど、夫には仕事を辞めてもらって、主夫業に専念させました。だって悪いけど、『あんたじゃ、この家を養っていけないでしょ』って。ホントのことだからだまっちゃった。下の娘が生まれてからは尚更です。家のローンも残っているし。娘たちに、本にしても音楽にしても質のいい環境を整えてあけたかったんです。母親が私にしてくれたように。なんか、そっくりな親子ですよね。似すぎていたから嫌だったんじゃないかな? でもね、子どもたちは無条件で私のことを好きでいてくれる。私は母親の反面教師として、自分の親子関係を作ろうとしている。母親に感謝しなくちゃいけないですよね」
複雑な笑顔を春菜は見せた。しかし、病弱だった彼女が少しずつたくましくなっていったのは、やはり家族のお蔭だった。
「旦那がすごくノンキな人で。私の風俗勤めを知った時には混乱しましたが、何日かするとケロッとして、淡々と過ごしているんです。何が起きてもそう。デートクラブのことは、私から旦那に話したんだけど、全く同じ反応でしたね(笑)。『心配でしょう?』って私が言うと、ソワソワ家の中を歩き回ったりするんですけど、テレビを見ているうちにわすれちゃう。翌日からまた淡々と進んでいける。ポジティブな人なんです。私にとっても、そういう彼の面がすごくプラスになっている。あと、やっぱり子供たちの笑顔ですね。自分が母親として適格なのか、彼女たちに嫌われていないか、頭の中をよぎることもあるけど、『そういう不安を持っちゃいけない』って自分に言い聞かせて。娘たちの顔を見るだけで不安も吹き飛ぶし、私をすごく前向きな人間にしてくれたんですね」
ヘルスやデートクラブに勤めて、春菜のセックス観と社会観は大きく変わった。
「セックスがお金になる場所が、こんなにしっかりあるんだってことが不思議で驚いた(笑)。ヘルスでは店を構えて、セックスに準じることをする小部屋がキチンと並んでいて職場として成立している。
デートクラブで使うラブホテルも、七割がたは風俗営業で使われている。どっちもビジネスとして成り立っているし、セックスってこんなに大っぴらなものだって実感したんですよー。でも、未だに表社会ではない。コソコソ、ヒソヒソやるもんで。そのギャップも面白いですね」
春菜が風俗を卒業して七年余り。振り返って、罪悪感はなかったのか。
「あまりないです。世の中にちゃんと存在しているのに隠さなくちゃいけないっていう二重構造が、私にはまだ理解できないの。だから医者の道でもコケたんだと思うんだけど。バレないようにした方がいい、とは思うけど、罪悪感は残っていないんですよ。旦那とは、今でもたまに風俗の話になるんだけど、あれは私にとって『仕事』だった。でも、旦那は『お前は俺と暮らしていてセックスして、同じ時期にデートクラブに入ってホテルとかに出張してたんだろ?』って。まだ思い出すと嫌な気持ちになるみたいね。『お前は、どう感じていた』とか聞かれて、『別に。生活のためだもん』って。どうしても自分が悪いことしたとは思えないんでね」
しかし、順調そうにみえる春菜の生活で、ひとつ課題が生まれた。そうなるべくしてなったともいえる。
「旦那が私のことを女として見られなくなったんでしょうね。いくら生活のためとはいっても、風俗で働く妻を見続けてきたわけだから、私が風俗を上がったのに、この頃夫婦のセックスがガタンと減って。私は思春期からセックスにずっと興味を持っていて、それを仕事とする世界に何度も出入りして。やっぱり普通の夫婦生活をするには、入ってはいけないところだったんでしょうね」
私は、ある光景を思い浮かべた。旦那とセックスレスになった後、春菜が再び風俗に戻る、という場面だ。セックスに興味を持って風俗に入った女は、いろいろな理由を見つけては、また風俗に戻ってくる。私はそういう女性たちの姿を幾度となく出くわしてきた。まだ四十歳の春菜にとって「働く」場所はいくらでもある。要は彼女の気持ち一つだ。
春菜が、評判のよかったHPを閉じたのも、風俗を卒業した頃だった。
偶然の一致だろうか。私は、そうは思わない。HPの中で自分の生い立ちやセックスのこと、そして風俗での体験と偏見を少しでもなくそうと洗いざらい書いたこと。一通り、吐き出し終わったのかもしれない。HPを辞めた理由を彼女が明確にしないので、断言はできないが、春菜のセックスの道は、これから新たな段階に入る。旦那との夜の交わりがなくなり、HPも閉じて、あえて密かに始める彼女のセックスライフ「第二幕」だ。
セックスはすればするほど分かることもあるが、その逆もある。「生身の人間同士が言葉以上に理解し合うコミニケション」と表した学者もいるが、それは、知れば知るほどわからなくなるという逆説もいつも抱えている。
取材を終え、私は駅まで春菜に送ってもらい、一人になって駅のホームで考えていた。彼女はその逆説を、あえて楽しんでいるのではないか、と。
「夜」から「昼」へ――あとがきにかえて
どれくらいの女たちが消えていっただろう。
結婚、トラブル、借金の完済、貯金の目標達成、気力体力の限界、風俗嬢としての賞味期限切れ。理由はさまざまだが、本当のところは他人には理解しがたい。多分、本人にも分からない。真実は。
風俗=夜の世界に入る時、私はこう考えた。家庭、学校、社会など昼社会の憎悪と虚無に支配され、偽物に囲まれて生きるよりずっといいと。リアルな「現実」が欲しい。唯一の「現実」は人の鼓動とお金だ。夜にはその両者がある。それを求める時間が破滅につながってもいい。直接この肌に温もりを与えてくれるもの。自分の価値を計れるものを自力で手に入れたかった。
しかし、女性にはそれぞれに商品価値という値段があるはずなのに、同じ店で働けば統一価格で売られる。不思議だと思った。誰でも店に行けばある程度稼げると目論むし、まさかすぐに働けなくなるとは思わない。でも、風俗の仕事は地雷地帯を歩くようなものだし、常に病気というリスクと隣り合わせだ。長くやればやるほどリスクも大きくなる。体の無理も効かなくなるし、疲労も激しい。肌や体型を維持するのも容易ではない。
それでも女を売り続ける。売れると思う。私はその迷宮を渡り歩いた。気がつけばあっという間に月日が流れ、その世界を上がって物書きになり十数年が経つた。転職しながらも今こうして風俗をテーマに文章を書き、生計を立ててる。明らかに変わったのは自分の身体を売らなくなったという一点に尽きる。今は風俗にいたという過去が現実だったのか夢だったのか、ときどき分からなくなる。そして何気なく夜の街を歩き、立ち並ぶネオンの明かりに目を細めていると当時のことを思い出す。甘く苦い懐かしさが思わず込み上げてくる。
今回の取材で会った女性たちは、それぞれの「昼」の仕事を皆な必死に生きている。昼の仕事だけしか知らない女性よりも、懸命にその仕事を頑張ろうとしているように私には見える。「夜」やったから「昼」の良さが分かるという女の子もいれば、夜の女だったことを勘づかれて周りから距離を置かれ、落ち込みながら奮起する場合もある。
風俗を経験してよかったのか。悪かったのか。
その答えはない。結局、個々人によって風俗入りした目的も、仕事の渦中で起きる公私のトラブルも、そして自身の風俗体験を通じての自己評価も多種多様で当たり前なのだ。風俗を潜り抜けた良し悪しなんて、永遠に誰も分からないのではないかと思う。風俗に限らず、全ての事柄はそうだと思う。
大切なのは、自分が風俗で生きて来た現実を踏まえて、それからどうするか、だ。過ぎ去った秘すべき日々として封印するのも、その経験をあたらしい日々に活かすのもいい。卒業生それぞれが選ぶ道だ。しかし私は、できれば風俗での体験を「その後」の糧にしてほしいと思っている。
風俗などで自分を売る女が急増している現状には、女の本質が深く関係している。女は幸せを競いたがるからだ。自分が他人に比べていかに恵まれていて幸せかと。そして風俗に入って波に乗れば、それが苦もなく手に入ることが多い。お伽話のお姫さまのごとく一夜にして大金が手に入り、思い通りの生活ができる。お金が鎧となって、自己肯定が始まる。私は間違った選択をしていないはずだ、私は私の道を歩いているんだ、と思い込む。自分が金持ちだという錯覚をみていたい。せめて少しの時間だけは、今まで見たことのなかったから一度くらいいいではしょう、と。
けれども時々「普通って何?」「自己実現って何?」と単純でストレートな疑問が唐突に浮かぶ。自分を守ってくれたはずのお金が、すぐどこかに消えてしまう現実を知って夢から醒める瞬間だ。
私の現役時代には風俗のプロが沢山いた。究極の接客業として心技体を常に磨き続けた女性たちだ。ここ数年、そういう女性は減って、自己愛の強い女の子が増えた。容姿に自信があって、注目されたいから雑誌のグラビアに出たい。手っ取り早いのが顔出しOKの風俗嬢になることだ。彼女たちは、お客の思いを察しようとしない。仕事を好きになれない。だけど型どおりのことはする。つまり風俗嬢は男性に射精するための道具になり下がったのだ。それなのに、いまだに話を聞くと「こんにキツい仕事をすれば、どんな仕事でもできる」という言葉が出てくることが多い。私もそうだった。だが、現実には、その人の器は変わらない。体験する前もその後も。やはり、風俗は夢の世界なのだと痛感する。
今回の取材で、私はいつもより残酷なことをしたと思っている。女性にとっては、心の奥底に閉じ込めていた過去をほじくり返して辛い思いをさせてしまったかもしれない。せっかく「昼」の生活に馴染みかけていたところに「夜」の媚薬的な魅力を思い出させ、逆戻りさせてしまうかもしれない。
人は忘れる。過去を忘れるのはこれから生きていくためのケジメでもある。私も、もう後ろを見て歩くのはやめた。しかし、いくら頭で忘れても肉体は覚えている。だから今でも葛藤が残っている。
当然、この本に登場する八人全員が事前に私の取材意図を合意したうえで受けてくたわけだか、いざ話を始めるとガードを固めたり、話をはぐらかしたりして自己防衛する女性が多かった。風俗専門の求人誌が出回る以前の風俗嬢たちだから、どこかで後ろめたさを引きずり、一度はどん底に落ちた自己評価を持ち上げようとする本能なのだろう。
取材を終えて、つくづく私は人生の一部をかじって物を書き、生活させてもらっていることを痛感した。でも、どうせかじるんだから心してかじらせてもらおう。そんな思いを抱えながら八通りの人生のエキスを結実させようとしたのが、この本だ。
夜から昼へと似たような人生を歩んでいる自分の姿を重ね合わせた。振り返れば私は、孤独を埋めたくてあの場所にいたのかもしれない。そう思うのは、今、振り返る時間を与えられたからなのだろうか。
女性たちが風俗を通じて得たもの失ったもの。それぞれ貴重な体験だと私は思いたい。
無駄なことは何一つなかったと。
二〇〇六年十月 酒井あゆみ
恋愛サーキュレーション図書室